さよなら、未来
1ぺージ
日に日に増していく日差しに、白い肌が少しずつ焼けていく。
高校生活、二度目の夏が始まろうとしていたあの頃。
僕たちの甘酸っぱい青春は、音もなく静かに消えてしまった。
別れ際に見た、恋人の最後の笑顔だけが、僕の瞼の裏にいつまでも焼き付いている。
ピピピ…。
遠くで目覚ましの音が聞こえる。
僕は音の鳴る方へ手を伸ばして手探りでボタンを押すと、すぐさま腕を引っ込めて冷たくなった腕を温めた。
これは小学三年生の頃、本格的な冬が始まる少し前。
まだ、自分1人で朝起きることの出来ない僕は、毎日目覚ましのアラームを消して、母親に起こしてもらっていた。
朝は苦手だけど学校は好きだったから、風邪を引いた時以外、休んだことはなかった。
母親に布団をはぎ取られ、ひんやりとした空気から逃げるように、開きづらい目を手で擦りながら部屋から出る。
ぬるま湯で顔を洗ってリビングに行けば、食卓の上には目玉焼きの乗ったトーストと温かい野菜スープ。
つけっぱなしのテレビに映るつまらないニュースをぼんやりと見ながらそれを食べ、寝間着を脱ぎ捨てるようにして着替える。
そして、少し汚れたランドセルを背負って玄関を開け、庭にいる飼い犬のタロに「行ってきます。」と、声をかけるのがいつもの日課だった。
冬の足音が聞こえ始め、気温が下がり始めた10月。
寒いのは得意じゃないけど、冷えた空気で、もうすぐ大好きな雪の季節が来ることを感じて、ワクワクした。
(そうだ!今日はちょっと寒いし、タロで温まってから行こうかな。)
そう思って、犬小屋へと足を向けた。
タロはシェットランド・シープドッグという毛足が長い犬で、冬は湯たんぽみたいに温かい。
毎年、雪が降ると2人ではしゃいで、雪遊びをするのが楽しみだった。
僕が生まれる前から飼っていたらしいから、本当はタロの方がお兄ちゃんなんだろうけど、気づいたら僕の方が大きくなっていたから、自然と弟のように感じていた。
「タロー、おはよー!」
犬小屋を覗くと、タロは奥の方に頭を向けて眠っていた。
生まれつき耳が聞こえづらいらしいので、元々呼んでもあまり反応がない。
僕の「行ってきます。」に反応する方が少なかった。
だから僕は気にせず近づいて、まずは背中を撫でた。
「寝てるのかー?…あれ……?」
違和感に手を引っ込めて、自分の手を思わず見つめる。
触れた手のひらが、冷たかった。
いつもの、あの温もりを感じない。
もう一度、今度は皮膚に触れるように奥まで触れてみるが、ひんやりとしている。
普段と違う体温に、急に胸のあたりがざわざわと嫌な感じがして、僕は急いで家に戻った。
靴を履いたまま玄関から、大きな声でお母さんを呼ぶ。
「お母さーん!タロが冷たい!」
キッチンで食器の片づけをしていたお母さんが急いで顔を出し、新聞を読んでいたお父さんも様子を見に来た。
「タロ…?」
「タロ、どうした?」
みんなで名前を呼んで犬小屋を覗きこむ。
お父さんがタロのお腹や首、顔など触ってから、お母さんを見て首をゆっくりと横に振った。
すると、お母さんは息を呑み、手で顔を覆って静かに泣き始めた。
「…お母さん?」
庭の向こう、道路を通り行く人達が、何事かとこちらを見ては、興味がなさそうに去っていく。
お父さんは家から薄手の毛布を持ってきて、タロの体にそっとかけた。
「夏輝、学校に行きなさい。タロのことは、お父さんとお母さんが見ておくから。」
「……うん。わかった。」
ーーなんとなく、頭ではわかっていた。
でも、わからないフリをした。
きっとタロは寒くて元気がないんだ。
美味しいおやつでも買って帰ったら、喜ぶだろうか。
新しいボールの方が喜ぶかな?
そう思いながら僕は学校に向かい、いつも通りの日常を過ごす。
いつも通りと言っても、休み時間のドッジボールはなんだかそんなに楽しくなくて、
授業中にする落書きも、今日はあんまり描けなかった。
窓から外を見ては、「タロどうしてるかな…」と、考えてばかりで、
友人からも「今日のなつき、変なの。」と言われてしまった。
授業が終わったら、今日は友達と遊ばずに真っすぐ家に帰ってきた。
早くタロに会いたかったからだ。
家に入る前に庭へ行き、犬小屋を見に行ったが、誰もいなかった。
いつもなら、尻尾を振って僕の帰りを待っているはずなのに。
タロのお気に入りのおもちゃも、朝お父さんがかけた毛布もなく、犬小屋はまるで新品のように空っぽだった。
不思議に思いながら家に入れば、何やら大きめのダンボールが置いてあった。
お母さんがまた通販で何か買ったのかもしれない。
僕はランドセルを部屋に放ってから洗面台で手を洗った。
「おかえりー、早かったわね。」
僕に気づいたお母さんが、廊下から声をかける。
濡れた手をタオルで拭いてから、声のするリビングへ駆け足で向かった。
「お母さん、タロどこに行ったの?」
「…こっちよ。」
少し悲しそうな顔をしたお母さんの後を着いて行けば、玄関に戻ってきた。
犬小屋にいない事は確認したのに、そう思うが、お母さんの足はここで止まった。
キョロキョロと辺りを見回しても、耳を澄ましても、タロの姿はどこにもない。
お母さんはしゃがんで先ほどの大きなダンボールを開けた。
「……タロ…?」
そこには毛布に横たわるタロと色とりどりのお花、タロが気に入っていたおもちゃや、ぬいぐるみ達が入っていた。
いくら見つめても、タロの目は開かない。
いつも上下に動いていたお腹も、動かない。
本当は、薄々、わかっていたんだ。
「タロね、……天国に、行っちゃったんだって…。」
お母さんが悲しげな、上ずった声で言った。
ダンボールから目が離せなかった。
何回見ても、寝ているようにしか見えない。
けれど、ぬくもりの消えた、ぬいぐるみのようなタロ。
胸がぎゅうと絞められたように苦しくて、僕はお母さんと目が真っ赤になるほど泣いた。
夜、夕ご飯が終わってから知らないおじさんが家にやってきた。
お母さんたちが話してるのを聞いてると、どうやらタロを迎えにきたらしい。
…お迎えって、どこへ?
ここが僕たちの家なのに。
なんで、タロを知らない人に渡さなきゃいけないんだ…!
僕がタロを渡したくない、とダンボールにしがみついていると、おじさんは思っていたよりも優しい声で言った。
「タロくんはね、残念だけど、もうおじいちゃんだったんだよ。私よりも、うーんと年上だ。」
「……おじい、ちゃん…?」
「そう。それでね、このままにしておくと、体がボロボロになっちゃうんだ。」
「……タロのこと、どうするの…?」
「おじさんはね、動かなくなったワンちゃん達をお空に連れていくお仕事をしてるんだ。」
おじさんは外に停めている大きな車を指差して言う。
一見ちょっと大きいだけの普通の車に見えるが、車の横にはアルファベットと天使の羽の絵が描いてある。
僕は車とおじさんを交互に見る。
この時の僕にはよくわからなかったが、後になってあのおじさんは移動式のペット火葬の人だったと知った。
「…しんじゃうと、一緒にいれないの……?」
「…そうだね。しんじゃうと、お空に行かなきゃいけないんだ。
でもね、これだけ大切にされてきたタロくんなら、
大切な家族のことをお空から見守ってくれるはずだよ。」
僕は少し、迷ってから、渋々手を放した。
タロをこのままにしておくのも、よくないんだと思ったから。
以前、夏祭りで捕まえた金魚が死んだときは庭に埋めたけど、タロには庭じゃ狭いだろうし、空でお散歩している方が、きっと楽しいだろうから。
おじさんはダンボールからタロをゆっくりと取り出すと、綺麗な箱へと移し替えた。
お花やぬいぐるみのオモチャ、お菓子を入れていき、「これはごめんなさいね。」とプラスチックのオモチャだけが元のダンボールに取り残される。
車の後ろを開けて、更にその中にある扉を開けて台を引っ張り出す。
おじさんはその台の上に、箱ごとタロを乗せる。
扉を閉める前に、お母さんが消え入りそうな声で、泣きながらタロに声をかけた。
「…、ありがとうね……、タロ。」
それを聞いて、僕もタロに何かを伝えたくて、
「たろ…、さびしかったら…っ、いつでも、かえって…、きてね……っ!また、…遊ぼうね……!」
僕の言葉を最後に扉は閉められた。
もう、二度と会えない。
明日、小屋を覗いても、弟のような兄に抱き着くことも、会うことも出来なくなる。
涙で霞んで、目の前がよく見えなかった。
けど、暫くしてから、今まで嗅いだことのない、何かが焦げるような臭いが少しだけして、
おじさんが指をさした車の上から白い煙がうっすらと見えた気がした。
僕はタロが天国で寂しくないように、と願いながら、おじさんやお母さんの真似をして手を合わせた。
おじさんが帰った後、お母さんが何枚かの写真をくれた。
それは僕とタロが写った写真だった。
赤ちゃんの僕と、一緒にお昼寝をしているタロ。
保育園を嫌がる僕と、連れて行こうとするお母さんから僕を守ろうとしてくれているタロ。
小学校の入学式に撮った、タロとの記念写真…。
どれも懐かしくて、僕はこっそり布団に持ち込んで枕の下に忍ばせる。
ベッドに横になってからも、想い出が次から次へと動画のように再生されて、目からポロポロと涙が出てきた。
タロは、ちゃんとお空に行けたんだろうか。
お腹が減ったり、寒かったりしてないだろうか。
僕がいなくて、遊び相手に困ってないだろうか。
そんなことを考えているうちに、僕は泣き疲れて眠っていた。